久保田之彦
昭和44年(1969年)インドシナ語学科(タイ語)卒業
1.はじめに
昭和44年大学紛争の吹き荒れる中、卒業
も6月になり、7月1日たった一人の入社式から明治乳業生活42年間が始まった。まだ国際部門も小規模で、外語の先輩は一人だけだった。まさかその後、世界60ヵ国に出張し、主に新規事業、新規市場開拓に一隅を照らすことが、できたことは、幸せであった。その点、機会を与えてくれた会社に深く感謝している。
その間、危ない目にも会った。パリの乳業関係国際会議出席し、モンマルトルのオ・ラパン・アジルとかいうシャンソニエと洒落こんだ、帰りの坂道でひったくりに遭遇し、階段を転がり落ち、無残な顔にさせられたり、タイでは、華僑系客先とブランディーのストレートの馬鹿な乾杯を繰り返し、急性アルコール中毒になり、気を失ったり、またパキスタンでは、痛風の発作を経験した。ドクターから、goutと言われてもわからず、ホテルで辞書で痛風と知ったが、何でもいいから、この巨象も倒すといわれている激痛を何とかしてくれと、お願いしたものだ。またそうエチオピアで、丁度革命があり空港閉鎖され、立ち往生したときは、場所が場所だけに、また携帯とかメールとか何もない時で、サウジアラビアに無事脱出したときの、安堵感は今でも忘れない。
2.第一期:育児用粉ミルク海外展開
最初の30年間は、育児用粉ミルクの海外展開に従事したが、本社に籍を置きながら一年のうち、3か月から6か月複数の市場への出張を繰り返した。妻もその間、留守を守り、両親の面倒みてくれて、感謝の他ない。
政治経済社会的カントリーリスクがあるが、まあまあ勘弁してくれとばかりに、徹底的にいじめられたというか、鍛えられた。大きなことだけでも、ドルニクソンショック、サイゴン陥落、円高による国産体制の限界、アジア危機、WHO広告普及活動規制、各国価格統制、知財紛争、。。。。こちらの常識は、あちらの非常識、逆もある。いくら社会性の高い育児用粉ミルクとは言え、サイゴン陥落とか、国家の体制に変化があれば、どんなに商品力、ブランド力があっても、国家統制により、輸入禁止、国家入札への変更という重大な事態に陥る。朝 目が覚めたら市場がゼロになっていたということだ。拠点集中か、リスク分散か、選択を何度も求められた。拠点市場集中をベースに、新規市場開拓もすべきと判断した。リスク分散という意義だけでなく、粉ミルクをブランドの先兵として位置付け、“次”の商品展開の受け皿市場として、ブランドの種まきとポジショニングした。
3.第一期:育児用粉ミルク新規市場開拓
拠点市場としてタイ、台湾を軸に展開したが、新規市場開拓として、商社からの情報も重視したが、それ以上に、現場接触を主導し、広角度から分析した。インターネットもない時代なので、自分で、現場に行き、広範囲の接触(厚生省、病院、地域保健局、薬局、患者)を密にし、食文化、どこに栄養的欠陥があるのかを探り、市場開拓の三点セットである“市場力market”“法規制regulations”“事業提携先partnership”をベースに進めた。机上だけでなく、現場を動くと、見えないものが、見えてくる。
私の信条である“Every cloud has a silver lining”が教える、どんな難題難問でも、道がある、必ず、攻めるところが、見えてくるものである。そのsilver liningをSWOT分析して、事業として、すべき規模かどうか、評価判定すれば良いと考えた。ロシアはモスクワへ攻めるのでなく、シベリアから攻められないか、太平洋でなく、日本海をハブ拠点にしたらどうか、とか、仲間と議論したものだ。
新規市場としてドミニカ共和国向けに、初めて粉ミルクが太平洋をわたり、パナマ運河を通過したとき、涙がこぼれた。
4.第一期:育児用粉ミルク拠点市場強化
拠点市場は、アジアであり、欧米の競合先である、ネッスル、ワイス社は先行進出30年、差をつけられていた。WHO規制といい、粉ミルクの広告普及活動規制が、厳格であり、このミルク戦争で、差を埋めるには、商品力をベースに、現場発信力を高めて行く必要がある。同じことをしていたら、30年は縮まらない。キーワードは“情報発信基地の組織化”である。
タイでは、現地プロパーと、バンに乗り、ほぼ全県を走破した。昼間は、病院でドクター、婦長さん、看護婦さんに挨拶、detailingして行く、夜は、流通客先である華僑卸、有力小売への挨拶まわりである。私と英語を話したいと思われる客先に対しては、英語で対応する、英語がだめだという客先にはタイ語で対応。そう私は、客先には、必ず名前で呼んだ、忘れないように、手の平に名前を書き対応した。
スパンブリという県があるが、忘れられない思い出がある。夜、問屋さんと酒を、何故か皆さんブランディー、それもストレートがお好きで、ごちそうになった。止せばいいのに、乾杯乾杯で、調子に乗りすぎて急性アルコール中毒で、私は、気を失った。問屋さんは、これは一大事と、県立病院に、担ぎ込み、知らせを受けた旧知の産婦人科、小児科のドクターまでも、ぞくぞく駆けつけてくれたとのこと。ドクターが、急きょ注射をしたとたん、私は気を失っていたが、“チェップチェップ!(タイ語で痛い痛い)”とうめいたという。
気を失っているのに、タイ語を話すこの日本人は、大したもんだと、一夜にして有名になり、その後の商売もスムーズに行った、こんな現場体験の繰り返しであった。
またタイと言えば、ボーダービジネスに、悩まされた。四海に囲まれている日本と違い、東西南北 国境に接している。国境があってなきが如くの世界である。販売的には、タイの地図が、太ったような気になるが、国境を接している国同士は、言語も商慣習も、輸入制度も、成分規制も通貨も、価格も、すべて違う。販売上のトラブル多く、頭痛の種だった。
5.第二期:豪州長期出張 高齢者向け高タンパク粉ミルク市場開拓
タイ、中国広州駐在を含め、30年間赤ちゃんミルクを担当してきたが、今度は何とその経験を生かして、豪州で、高齢者向けにミルクを売る立ち上げの命令がでた。53歳の時であった。豪州の原料・乳原料調達拠点の位置付けは、認識していたが、初めて市場としての豪州を立ち上げろということだ。たった2千万程度の総人口、広大な国土、出張で何度か経験ある地域だったが、どう攻めて行けばよいか、前知識はほとんどない。商社も介在しない、すべて自分で動く、動くと言っても、どこへいけば良いのか、見当もつかない。
ましてやここは、英語圏。東南アジア英語には、多少の自信があっても、ここのオージー英語は、当初よくわからなかった。もっとはっきりしゃべって欲しいとお願いしても、“大口開けるとハエが入ってくるよ”と、笑いながらぼそぼそ言う。でも、始めないことには、始まらない。オージーは、真剣に困った人には、実に親切に接してくれる。何度救われたことか。実にすばらしい皆さんだ。
日本とも、東南アジアとも、ここ豪州は、食生活、多民族国家、商習慣、商流、物流すべて違う。
基本動作に戻り、自分で厚生省、地域保健局、栄養士協会、医師協会、病院、統計局、老人介護施設、食系薬系流通チャネル、スーパーマーケット、食品マーケットと、ここは豪州、豪に(郷)行っては、豪(郷)に従えであり、決してLittle Tokyoは作るまいとの信念で、豪州人の仲間と基礎固め現場接触して行く。毎日独自取材を重ねるしかない。Meals on the Wheels(MOW)という、在宅高齢者向け配食サービス事業がある、車の助手席に乗せてもらい、一軒一軒配る、何が好きか、何が嫌いか、何が不満か、どこに参入チャンスがあるか、高齢者とか、MOWの人々から、生の情報が、入る。インターネットでは得られない皮膚感覚で何かが見えてくる。こうして現場に触れて行くと、広大な国土だが、南豪州を含めた東部4州の人口集中度は70%を超す。経済民度も高い。一方、魚文化は低く、野菜嫌いも、見えてきた、つまり食生活栄養面での弱さが見えてくる。商品の差別的価値を、どういう切り口で、どう、どこへ攻めて行くか、見えてくる。東部4州への人口が総人口の70%以上という事実は、販売network作り、物流体制作りからも、効率が良い、多国籍国家だから、有力企業は、test marketとして、豪州を重要視している点も、見えてきた。即ち、跳躍台(jumping board)として、豪州での評価次第で、世界へ水平展開するという戦略的位置付けである。
中国人向けの科学ラジオ番組にも、出演して、ブランド知名度UPに、努力した。そのラジオ番組は生放送で聴取者との質疑応答ががあり、一年分の冷や汗がでたのも、今ではいい思い出である。
そう、地域老人大学という文化教室に招かれ、講演した。その時、77歳のスコットランド出身の夫人が、立ち上がり“私は今、日本語を勉強している、二年後は今度は、中国語に挑戦よ。Never too lateよ”と言われた。この時の感動は、私のmemory bankに永久保存である。
6.おわりに
私にとっては市場としては、未知である豪州での2年半の、販売立ち上げ経験は、交渉とは“全人格交渉”であることを、あらためて認識させてくれました。
常に、好奇心を持ち、個の発信力を高めて行かねば、相手にしてくれません。商談とは、sport、芸術、文化、政治談議をしてから、やっと始まります。新聞買い、政治面社会面sport記事(特にオージーフットボール、クリケット)を読んで、車中で豪州人仲間とウオームアップしてから商談に臨む毎日。
若きとき、何かで読んだのに、「VSOPで行け、20代variety何でも嫌がらないで、与えられた仕事やれ、好奇心も忘れるな、30代speciality 他人には、負けたくない分野をもて 40代originality 50代 personalityと自身の深みと魅力を進化していけ、どうするかは、自分で考えろ! その進化の積み重ねが、あればお前のチームのメンバーはお前に付いて行く」。裾野は広くなければ、高い山は築けないとも教えられました。好奇心だけは、一人前に持ち、hesitationは、なくすように努めました。聞くは、一時の恥と思います。
既成概念または色眼鏡を外して現場を眺めると、例えば食品マーケット、スーパーマーケット、食堂という現場から、総人口概念の他に、“胃袋人口換算”したらすごい市場だとか、複眼的思考が養われます。特に中国広州に駐在したとき、感じたものです。
会社生活の最後の6年間は、また別の新規 ビジネスを求め、何度もアメリカフランスを行く機会があり、時間を見つけて、美術館めぐり、特にミレーの“晩鐘”は、私の家族の理想形、バルビゾンの地を踏み、ミレーのアトリエに入らせてもらったときは、心が震えたものです。触れるだけで、興味を持つだけで、自分の裾野が、幅が、ちょっと広くなった気がするんです。フランスでは、小学校からディベイトの教育、訓練と聞きました。個の発信力を高めるには、今からでも裾野、幅を広げておきましょう。
何事も、Never too lateですから。
----(略歴)-----
神奈川県茅ケ崎生まれ。神奈川県立小田原高校卒業、東京外国語大学1969年卒業
明治乳業入社2011年まで42年間勤務。 勤務地:本社 海外駐在(タイ2回中国広州)海外長期出張(豪州メルボルン) NNA豪州(経済情報配信)の依頼により、豪州奮闘記出稿(2001年8月28日号)。
2011年退社 現在 国際食品ビジネスコンサルタント:ニッポンの食文化のグローバル展開・グローバル化人材育成教育の分野で微力を尽くしたいと考えています。2012年10月
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