岡本 卓
昭和46(1971)年インドシナ語学科(ベトナム語)卒業
原点はベトナム戦争
人口が千人にも満たないような京都府の片
田舎の村で生まれ育った私の家にテレビが来たのは小学校3~4年の頃でした。野山を駆け巡って遊んでばかりいた少年にとって、テレビが伝えるベトナム戦争は衝撃でした。なぜ、豊かなアメリカは貧しいアジアの小さな国で戦争をするのか?アメリカは日本やドイツに勝った強い国なのになぜ、勝てないのか?ベトナムって、そんなに強い国なのか?・・・疑問だらけの少年時代でした。
高校に入学し、大学進学を考える頃になりましたが、田舎の高校には十分な情報がありませんでした。唯一の情報源は旺文社の月刊誌でした。ページを繰ると東京外語大でベトナム語を教えていることを知りました。大阪や神戸の外語大を見てもベトナム語はありませんでした。テレビで流れるベトナム戦争の悲劇と大学が重なり、私は東京外語大一本に絞って受験しました。
大学時代
順調にスタートした大学生活は2年目の夏休み明け
から全共闘運動で混乱を極めました。大学にも改めるべき点があると感じていましたので、初めは全共闘の主張に耳を傾けましたが、途中から中国の紅衛兵のように「自己否定」とか「造反有理」といったスローガンが氾濫するようになりました。疑問を感じた私は、いわゆるノンセクトの立場で他学科の学生とともに全共闘運動に反対するようになり、全学ストライキを解除するための学生大会を開く準備に取り組みました。紛争はおよそ1年後に収拾しましたが、余波は残り、結局私たちの学年も卒業式を行えませんでした。ベトナム語の習得を含め、大学生らしい勉強は出来ませんでしたが、得がたい体験でした。
(写真:1968年秋から全共闘によってバリケードされた東外大が、翌69年3月に機動隊が学内に導入されて封鎖が解除された時のNHKニュースの画面を著者が撮影したもの)
また、当時は3年生の後半に入れば就職先が内定する友人が出始め、私も自分の将来を考えなければならなくなりました。自分の性格を思うと実業界は無理と判断してマスコミを目指すことを決めました。終わりそうにないベトナム戦争に加え、世界中に衝撃を与えたビアフラの悲劇も大きく影響しました。当時、朝日、毎日、読売各紙と共同通信、それにNHKの就職試験は、今では信じられないことですが、試験日が全く同じ日でした。つまり、これらのうち1社しか受けられなかったのです。私は、NHKに決め、他の業界や企業は一切受験しませんでした。大学を選んだ時と同様、1本に絞り込むという困った性格のままでした。
トロッコ記者のスタートとベトナム
NHKに採用された私は横浜に配属されました。そして、警察担当として2年目に入っていた1972年の8月、私にベトナムが蘇りました。当時の飛鳥田一雄横浜市長が支持労組と一緒になってベトナム戦争に反対する行動を起こしたのです。アメリカ軍は神奈川県相模原にある補給廠で修理したM48型戦車をベトナムの戦地に送るため5台の大型トレーラーに載せて横浜港に向かわせていたのですが、飛鳥田市長は市の条例を盾にして国道のど真ん中でトレーラーを通行止めにしたのです。トレーラーは50時間も立ち往生し、私は“戦車番”として夜中もずうっと戦車を見張るよう指示されました。結局、戦車を積んだままのトレーラーは相模原に引き揚げ、飛鳥田市長の勝利に終わりましたが、私の心の中は不完全燃焼でした。
その頃、ベトナム戦争は北ベトナム軍やベトコンの攻勢が続き、南ベトナムを脱出した“ボートピープル”が日本各地の港に上陸するようになっていました。私は「今こそベトナムに行かなければ、何のために外語大に入学したのか分からない」と思い、上司にベトナムに行かせて欲しいと申し出ました。殺人事件のニュース原稿さえ満足に書けない2年生を行かせるわけにはいかない、と断固拒否されましたが、私も断固退かず、結局僅か10日間でしたが、ベトナムに行かせて貰い「戦争」をわが身で直接体験できました。しかし、わがベトナム語はまったく通じませんでした。
サイゴン支局長は私より十数年も先輩でした。戦場取材に出かけない日には毎日、日本にいる夫人に手紙を書いていました。支局長曰く『「遺書」だよ』。
また、「地雷を踏んだらサヨウナラ」の一言を残して非業の死を遂げたフリーの一ノ瀬泰造カメラマンはその頃、NHKの支局にもちょくちょく顔を出していました。真っ黒に日焼けした戦争カメラマンの精悍な素顔に接し、身の引き締まる思いでした。
政治部“難民記者”として
横浜で警察を担当した6年が過ぎ、1977年に定期異動で報道局政治部に移りました。ベトナム戦争は2年前に終結し、福田赳夫首相に大平正芳自民党幹事長の“大福”コンビの時代でした。
私は首相官邸や外務省の他に、私に政策を勉強させようという上司の考えからでしょう、健康保険や年金制度を扱う厚生省や大蔵省も担当しました。字数の関係でここでは1979年から80年にかけて担当した外務省での経験を紹介します。
その頃、韓国のパク・チョンヒ(朴正熙)大統領が 暗殺され、インドシナ半島では中越戦争とカンボジア内戦、ソ連のアフガン侵攻が続きました。このうちカンボジア内戦で日本政府は後に国連難民高等弁務官になる緒方貞子さんを団長にしたミッションを現地に派遣しました。私は日本のテレビ記者としてただ一人、緒方ミッションに同行して混乱を極めるカンボジア情勢を取材しました。タイとカンボジアの国境地帯は飢えと病に苦しむカンボジア難民であふれ、遠くヨーロッパからのボランティアが活動していましたが、日本人のボランティアはゼロ。すかさずヨーロッパからのボランティアは、私が日本人のレポーターであることを見抜き『同じアジアの国なのに、なぜ救援に駆けつける日本人はいないのか!』と言い寄って来ました。
食べるものもなく原野を彷徨う難民の子どもたちは緑色の鼻水を垂らして咳をして、手足は針金のように細く、まだ幼かった二人のわが子の姿と二重写しになった私の目は潤んできました。
ヨーロッパからのボランティアの声とともに難民の悲劇を現地からレポートしました。後年、「カンボジアでのボランティア活動に参加したきっかけはNHKのレポートだった」という人の声を聞いた時、「記者をやっていてよかった!」と実感したものでした。
同じ年、私はソ連侵攻でパキスタン国境付近にあふれ出たアフガン難民も現地で取材、いつしか政治記者なのに“難民記者”とも呼ばれるようになっていました。
グエン・コ・タクベトナム外相の思い出
政治記者か“難民記者”か分からないような時代を過ごしたあと、同じ報道局の外信部(現国際部)に移籍しました。カンボジア紛争は依然続いており、日本に来る関係各国の要人たちにインタビューするなど、取材は続けていました。悪名が高かったポルポト政権の幹部も度々来日し、私がインタビューした要人の中にはキュー・サムファン首相やイエン・サリ副首相夫妻なども含まれていました。
その後、私は海外勤務になり、テヘラン、ジャカルタ、シドニー、バンコクの支局長を歴任しました。このうちバンコク時代の思い出を紹介します。
私がシドニーからバンコクに転任したのは1990年でした。当時のベトナムは戦争の深い傷跡も癒え始め、日本のマスコミ各社はベトナム政府との間でハノイに支局を開設する交渉に乗り出していました。私も前任のバンコク支局長から交渉を引き継ぎました。
バンコクからハノイにまるで“通う”ようにして交渉していたある日、ベトナム外務省で担当局長と話していましたら、局長室の外をグエン・コ・タク外相が通りかかり、私の姿に目を止めました。実は、タク外相には東京で2~3度インタビューしたことがあったのです。その時のインタビューはなんとかベトナム語で質問したのですが、ヒアリングが全く出来ず、外語大の川口健一教授やNHK国際局のベトナム語専門家(もちろん外語大出身)に急遽、来援を求めて急場を凌いだことは汗顔の至りでした・・・。
そのタク外相が局長室に入ってくるなり私に「何をしているの?」と言うのです。私を覚えてくれていたことにビックリしたのですが、同時に支局を開きたいというNHKの意向が外相に届いていなかったことにガックリしたのは言うまでもありません。私が改めてNHKの考えを、今度は英語で説明するのをニコニコ顔で聞いてくれました。
この時はそのままタク外相と別れましたが、バンコ クに戻って暫くすると、ベトナム外務省から渋谷のNHKにハノイ支局開設の許可が届きました。NHKより一足先に共同通信がハノイ支局を開いていましたが、新聞社はまだどの社も開けておらず、NHKはテレビ局としては世界で第一号でした。
因みに、共同通信の初代ハノイ支局長は辺見秀逸さん(後の作家・辺見庸)で、私とは横浜で警察取材の合間に花札に興じた仲でした。ハノイに駐在していた辺見さんとは全く偶然にジャカルタのすし店で再会したこともあり、今では懐かしい人生のひとこまとして心に残っています。
(写真:ベトナム・ハノイ支局オープニングパーティ 1991年)
現役の外語大生の皆さん、僭越ながら
今の大学生は静かです。おとなしいです。
政治も経済も閉塞感が漂い、本来なら人生においてあらゆる可能性を秘め、最も華々しい活動期にあるはずの大学生は窒息状態にあるのかもしれません。団塊の世代の私たちの時代と比べて、今の大学生は“可哀想”でもあります。
(写真:ニュース7の編責の頃。1997年)
こんなことを言うと、現役の皆さんからは
「我々こそ、団塊の世代の犠牲者だ!」
「先輩たちが“食い散らかした”後しか、我々には残っていないのだ!」
といった罵声が聞こえてきそうです。
そんな時代を生きる現役の皆さんに僭越ながら、また反省を込めながら言葉を贈りたいと思います。
より多く生きよ!~多くの人に会い、経験を積もう~
怒れ!~世の中の不条理に目をそらさず、鮮明に対処しよう~
念ずれば花開く!~でも、棚から落ちるぼた餅の真下に行く努力だけはしよう~
----(略歴)-----
1948年、京都府丹波町(現京丹波町)生まれ。1967年、京都府立須知(しゅうち)高等学校卒業。同年、東京外語大インドシナ語学科(ベトナム語)入学、1971年同卒業。同年4月、NHK入局。横浜放送局を振り出しに、報道局政治部、外信部(現国際部)、海外支局(テヘラン、ジャカルタ、シドニー、バンコク)駐在。国際部担当部長、ニュース7編責、報道局記者主幹等を経て、2005年、NHKを定年退職。現在、十文字学園女子大学メディアコミュニケーション学科教授、日本女子大学講師(非常勤)。
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