日溪哲人(ひたに てつと)
昭和47年(1972年)インドシナ科卒
フランス語との出会い
1968年外語大のインドシナ科(タイ語専攻)に入学
したものの、一年生の夏休み明けから学生運動のストで以後一年半以上授業は無く、その間数ヶ月間アテネフランセでフランス語を習ったのがフランス語との出会いでした。当時、まだ前置詞もろくに判らない段階からアルベール・カミュの『異邦人』を単語を一つ一つ辞書を引いて読んだのを覚えています。結局はこのやり方がその言葉の仕組みを覚える一番の近道だったと思います。その後、四年生の夏に、パリのアリアンス・フランセーズでニヶ月間夏期講習を受け、最後の一ヶ月間欧州各地を単身で旅行できたことは、私にとって何ものにも優る良い経験・財産になったと自負しています。
OECD保険委員会
東京海上では海上保険(貿易貨物保険)と海外部門に在籍していました。希望がかなって(会社には常に希望を伝えることが肝要です)パリに駐在していた時、大蔵省(当時)の委嘱を受けてパリに本部のあるOECD(経済開発協力機構)の保険委員会の日本代表を勤めたり、ジュネーブに本部のある国連のGATT(貿易と関税に関する一般協定:現在はWTOに移行)の保険会議に出席したこともあります。一番の思い出は、OECDの同時通訳(英仏語)の耳に当てるイヤホンがいつも調子が悪く痛くてたまらなかったことです。
パリで再就職
東京海上を繰り上げ停年退職後は、パリ郊外に
ある保険ブローカー会社に勤務しました。保険ブローカーとは、保険契約者の代理人として、然るべき保険会社に保険契約を手配する人で、欧米では企業の保険は総てブローカーが扱います。私は社員1500人の中で唯一の日本人でしたが、担当地域はフランスとイタリアとスペインの三カ国で、いずれも食事やワインが美味しいところで、東京海上の職場の元同僚からは羨ましがられたものでした。
大手企業で海外勤務を経験した人でも、退職後に海外の非日系の現地企業に再就職する人はあまり多くないようです。東京海上の場合でも、海外関連子会社に再就職する人は数人いましたが、完全な現地企業に再就職した人は他に殆どいなかったように思います。私がそれを決意したのはやはり再度新たなことにチャレンジしたい気持ちがあったからですが、決めるに際しては勿論同行する家族の理解がなければ実現できません。私の場合、幸いそれ以前に幾つもの海外駐在を経験しておりパリは二度目だったことから、家内が、「まあ、何とかなるのでは」と賛成してくれたことが迷っていた私の背中を押してくれました。家内には今でも感謝しています。
東京大学でフランス文学を
ある国立大学の先生曰く。「今後団塊世代の人たちが続々退職するが、彼らはまだ元気で知的好奇心もあり、時間は勿論、経済的にも少しはゆとりがあるので、大学に戻って勉強したいと考える人が増える」と。私の場合はそうした事情に加え、ストもあって外語大で満足な勉強をしていないという大きな後悔(?)がトラウマのようにあったことも、改めて大学で勉強しようと考えた理由の一つでした。
東大では自分の子供よりもさらに一回り若い人たちと一緒に授業に出ています。授業の多くは演習形式で予習が必須で大変ですが、欠席ゼロで頑張っています。現在は四年生で、エミール・ゾラの『ルーゴン・マッカール叢書』の中から三つの作品について卒論を書いている最中です。
東大の文学部には私と同じような停年退職者が何人か在籍しています。そして皆さんに共通するのは、いずれも大変熱心だと言うことです。何故かって?それは勿論「新たな知の世界への挑戦」が楽しいからなのです。フランス文学は無限にあります。卒業後も元気が続く限りフランス文学に接して行こうと今から楽しみです。意欲だけはまだまだ若い人たちに負けません。
----(略歴)--------------------------------------------------
山口県出身。1972年東京外国語大学インドシナ科卒業。同年東京海上火災保険(株)に入社。以後、大阪支店、東京本社、パリ、ロンドン、ハノイ等での勤務・駐在を経て2003年に繰り上げ定年退職。その後フランスで保険ブローカー会社に四年間勤務。現在、東京大学文学部フランス語フランス文学専修課程(四年生)に在学中。都内在住。
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本人への連絡を希望される学生、同窓生の方は、東京外語会平成の会([email protected])宛にお問い合わせ下さい。
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