柳沢 享
昭和33年(1958年)英米科卒業
小学校6年の時、将来の進路に関わる出来事に遭遇した。戦後間もなく郷里近郊の信州浅間温泉にやってきた進駐軍との出会いである。ジープに乗った米兵は格好よく意外に気さくで、「鬼畜米英とはこういう人種だったのか」と正直驚いた。
異文化体験で英語に興味
中学から大学まで英語の学習に力を入れたのは、 この体験の影響である。トヨタに入社後、英語力を一層高めるべく1960年から61年にフルブライト奨学生としてミシガン大学へ留学。当時のフォード、マクナマラ社長(後の国防長官)の特別講義が今でも強く記憶に残っている。
欧州駐在でヨーロッパ文化に触れる
63年欧州向け輸出が始まり、初代駐在員としてコペンハーゲンへ赴任。デンマークをベースに輸出市場を開拓した結果、オランダ、フィンランド、英国への輸出が実現。欧州人が話す英語は、母国語の影響が強く表れ、耳が慣れるに従って、英語を聞くだけで国籍の見当がつき面白かった。
激動の北米市場を担当
71年から83年まで激動の北米市場を担当。ニクソン・ショック、ダンピング調査、二度のオイル・ショック、日米自動車摩擦など難題が続発。最大の難題は自動車摩擦で、その対応に苦労。最終的には、日本車の対米輸出自主規制と対米工場進出により解決。GMとの合弁生産提携を実現、これがトヨタ国際化への端緒となった。
カナダ・トヨタ社長として異文化経営を体験
83年から89年までカナダ・トヨタ社長として文化・宗教・価値観などの異なるカナダ人中心の異文化経営を体験。「人間尊重の経営」を理念とし、「3C」を提唱・実践。3Cとは「コミュニケーション」「コンシダレーション」「コーポレーション」をさし、相互の連絡を密にし、相手の立場に立って考え、相互に協力して仕事を進める、というもの。東西6,500キロ、時差4時間半の広大な土地に全国250店の販売店が点在、訪問に時間がかかり、現場重視のトヨタ式経営の実践が難しく、渋る本社を説得して自家用機を購入。社長として理念と3Cを率先して実践。86年、カナダ・トヨタはFinancial Postにより「カナダで働きたいベスト百社」の一社に選ばれた。
商社の経営に転身
カナダは住み心地がよく、退任後は永住も考えていたが、89年、突然帰国命令が出され、グループ内の豊田通商の役員に転出。副社長として退任するまで10年余勤務、車両部門を皮切りに、中枢の金属部門や東京本社を統括。豊田章一郎トヨタ社長から「早く業績を伸ばし、大手商社の一角に食い込むように」と叱咤激励されたが、現実は厳しかった。
退社後は奉仕活動に従事
縁あってトヨタに入社後、専ら海外部門に在籍、国際化の先兵として活動。思い出は尽きないが、若き日のデンマーク駐在、フォード・GMとの提携交渉、及びカナダ駐在が強く記憶に残っている。退社後は数年間、東京経済大学で非常勤講師を務め、今は母校同窓会(本年6月末外語会監事退任)日米協会(本年5月理事就任)などの奉仕活動に従事している。
----(略歴)-----
長野県松本市出身、松本深志高校を経て1958年東外大英米科卒業後、トヨタ自動車入社。1960-61年ミシガン大大学院にフルブライト留学。1963-68年初代欧州駐在員としてデンマーク駐在、1971-83年北米市場を課長・部長として担当。日米自動車摩擦対応の為フォード・GMとの提携交渉に当たり、GMとの合弁提携を実現。1983-89年カナダ・トヨタ社長としてトロントに駐在。1989年豊田通商常務に就任後、専務・副社長を経て99年退社。1999-2002年豊田スチールセンター社長、2002-2004年豊田通商顧問を経て退社。著書にフォード・GMとの交渉を記録した「海外雄飛を胸に」(トヨタ歴史文化部出版)、訳書(共訳)に「成功企業のIT戦略」(日経BP社出版)がある。(2012年6月現在)
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